決意




「あ、起こしちゃった!」

深い闇に引きずり込まれかけていたシャルルの意識は、ふいに現実に引き戻された。
「もう!ジュセが音をたてるからよ」
チョコレート色の肌に大きな瞳を潤ませた少女アナとその弟のジュセがシャルルの顔を覗きこんでいる。
「シャルル先生、大丈夫?なんだか顔色がとても悪いみたい」

「・・ああ、アナとジョセか」
シャルルはゆっくりと壁から身を起こし、流れるような白金髪をかきあげながら立ち上がった。
「大丈夫だよ、ちょっとうたた寝していただけだ」
「疲れているのね。先生ったら寝る間も惜しんで働いているんですもの。
 キャンプの皆も心配しているわ、このままじゃ先生の方が先に参っちゃうってね」
そう言って心配そうに眉をひそめたアナの脇から、まだ幼い弟のジョセが顔を覗かせる。
「はい、これ食べて元気出してね!先生の分」
屈託のない笑顔で小さな手に大切そうに持った「シマ」と呼ばれる食べ物をシャルルにさし出した。
そのトウモロコシの粉を固めた食べ物は、かつてのシャルルだったら決して口にすることのない粗末な物だったが、
ここではそれでさえ時々しか食べられない貴重なものだ。
「ありがとう。でも私はお腹がいっぱいだから君達でお食べ」
「いいの?」
パッと顔を輝かせ「シマ」をポケットにしまいこんだジョセの隣でアナの不服そうな声がもれる。
「もうジョセったら!」

アナは12才になるというが、栄養失調のせいでせいぜい7、8歳にしか見えない。
弟のジョセは5、6才といったところか。
この姉弟の母親が地雷で受けた傷をシャルルが治療したのがきっかけで、
何かと身のまわりの世話をやいてくれるようになった。
あまり子供と接したことのなかったシャルルは、初めその好意が鬱陶しく、やんわりと断ったが、
「だって先生は母さんの命の恩人だもの、お願いだからこの位の事はさせて。
 先生がいなかったら、私とジョセは孤児になって今頃死んでいたわ」
と人なつっこく付きまとってくるので、気が付いたらこの姉弟にすっかり情が移ってしまっていた。
また「学校に行くことが夢」という姉弟に読み書きを教えたりもしていた。



このモザンビークに連れてこられゲリラの監視下のもと医療活動をするようになり、
あっという間に月日が流れた。
かつては農業で栄え、豊かな伝統と恵まれた資源を持った決して貧しくなかったこの国は、
今は見る影もなくもう10年以上にも及ぶ内戦ですっかり荒廃し、人々は傷つき疲れ果て難民になった。
国土は地雷で覆われ、熱帯病が蔓延し、安全な水ですら手に入らない。

ふいの銃撃戦で簡単に人が人でなくなる瞬間。
見慣れているつもりだったが、その惨状を目の当たりにすると、
冷徹と呼ばれるシャルルも流石に心が痛んだ。
でもその光景もしばらくすると日常となった。
次々と運ばれてくる病人や怪我人の治療に追われる毎日が続いたが、
寝食を忘れ没頭するしかないこの悲惨な環境は、シャルルにとってはかえって好都合だった。



どれだけの月日が流れても色褪せることがないであろうマリナへの強い想い。
その失恋の穴を埋めるためにここにやってきた。

忘れてしまえればどんなに楽だろう。
初めから何も望まなければ苦しむ事もなかった。
忘れられないのならば、考えないようにするしかない。
ゲリラの目を盗んでフランスに帰る事はシャルルにとって容易い事だったが、
彼はそうせず、この極限の状態で自分自身を滅ぼすかのように難民の救済に当たった。

「ありがとう、シャルル先生」
いつしか人々はシャルルに感謝の言葉を述べるようになり、その度にシャルルの胸に罪悪感がかすめた。
彼らのためというよりも、自分のためにしていることなのだ。
それでも、彼らはシャルルの地位や名誉ではなく彼自身の献身ぶりに感謝と尊敬の念をよせ、
自分を必要としてくれる。
その善意はありがたく、かつて感じたことのない安堵感を憶えていた。

人に感謝される事も悪くないと素直に思えるようになった。

そんな忙しい日々を送りつつも、
ふとした瞬間にマリナへの今も変わらない熱情が彼を苦しめる。
時間が苦悩を解決し、彼女とのことがいい思い出となる日がくることを願ったが、
思っていた以上にこの感情は激しく厄介で、抑えつけるにはなかなか手強かった。

父が亡くなり、フランス政府やアルディ家が彼を捜しているという事はウワサで聞いていた。
だが、癒えない傷を抱えあの孤独と倦怠の日々に戻るにはまだ時間が必要だ。
それに、自分を頼りにしてくれる人々を置き去りにするわけにはいかない。
できることならもう少しここにいたい。




「先生は時々とても悲しそうな顔をするのね」
アナの声に、考えをめぐらせていたシャルルは少しバツが悪そうに表情をゆるめた。
感情を顔に出したつもりはなかったが、この少女はなかなか鋭い。

「先生もお家に帰りたいわよね。先生の家族も寂しがってるんだろうな」
シャルルはアナの目線まで腰を落とし、その頭の上にそっと手を置いた。
「悲しくなんかないさ。私には帰りを待ってくれるような家族はいないからね。
 それに君達がこうやってやってきては賑やかに騒ぐから、寂しがってる暇もない」
そう言いながら、子供相手にこんな穏やかに話す自分を見て、皮肉屋な友人達はどんなに驚く事だろうかと考えてみる。
我ながららしくないと、シャルルの美しい口元が自嘲的にゆがんだ。

「そうよ、先生は一人じゃないわ。
 先生に助けてもらった大勢の人達が先生のことを家族みたいに思っている。
 それに・・」
アナはいったん言葉を切って、シャルルの首にふわっと細い腕を絡めた。
「それにね、ここにいる間、先生はアナが守ってあげるわ」
その言葉にシャルルは一瞬目を見開いた。
「僕も守ってあげるよ!」
アナにつられたジョセもシャルルの胸にぎゅっとしがみつく。

(あたしがあんたを守ってあげるわよ)

アナの言葉と別れる前のマリナの言葉が重なり、その時の光景を伴って眩しく鮮やかに蘇えった。
抑えていた感情が一気に胸に押し寄せ、懐かしくて愛しくてシャルルは眩暈がした。
「ありがとう・・それは心強いな」
声が微かに震え、綺麗なブルーグレーの瞳に屈折した深い影が落ちる。
結局自分は逃げてきたのだ。
叶わなかった愛を封じるために。
だけど、誰かに救って欲しいとは思わなかった。
ただこの心の飢えを何かに夢中になる事で満たしたかった。

ところが思わぬ人々の温かさに触れ、自分の居場所を見つけ、人の役に立てる事の喜びを教わった。
今、最愛の人と同じように自分を守ってくれると言ってくれたこの小さな2つの命を体に感じながら強く思わずにはいられない。
この子達を救いたい。
しかし、このまま一人の医者として医療活動を続けたところで限界があり、
根本的な所は何も変わらない事も充分わかっていた。

「そうだ!先生に渡したいものがあるの」
思い出したようにアナがポケットから折りたたんだ布を取り出した。
「なんだい?」
手渡された布を広げると、数粒の種が入っている。
「お守りよ。父さんが死ぬ前にくれたの、 戦争が終わったらこれを蒔きなさいって。
 私ね、辛い時はこれを見て一面の緑を想像するのよ。
 そうするととても元気が出るの」
一面の緑。
フランスに住んでいればあたりまえな光景が、ここでは願っても叶わない現実。
そんな少女のささやかな拠り所を受け取るわけにはいかず、そっと少女の手に戻した。
「いいの。弟も同じものを身につけているから。
 それに私が持っていても頭が悪いし、上手に育てる自信がないわ。
 シャルル先生ならこの種をいっぱいに増やすことができるでしょ」
「何を言ってるんだい」
シャルルは優しく微笑み、その繊細な手で種の入ったお守りごとアナの手を包みこんだ。
「いいかい?
 君はいつか必ず学校に行けるようになる。
 そこで好きな勉強をし、君自身の手でこの荒れた大地を一面の緑にすることだってできるよ」
「本当に?」
「本当だ。私の言う事は絶対だ。
 何しろ私は生まれてから一度も間違えたことがない」
そう言ってシャルルは2人の肩を抱きよせ、凛と顔をあげた。



フランスに帰ろう。
この子達のためにも逃げてばかりはいられない。

アルディに戻ればこの身ひとつですら自分のものではなくなるだろう。
でもそれを嘆くより、最大限にその立場を利用し全力で自分のなすべき事をなそう。
最愛の人を失ったいま、これ以上何を恐れることがあるだろう。
もう悩むことはない。
結果が全てだ。



「やぁ、ジルかい?オレだ。・・・・あぁ元気にやっている。
 これからパリに戻るよ。
 すぐにジェット機をこっちにまわして欲しいんだ」


Fin


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2005.12.24.

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